石造物紹介
博物館本館 天文展示コーナー
(1) 二十三夜塔
造立年 嘉永7年(1854)
旧在地 分梅町1丁目 光明院前
かつて、特定の月齢の日に仲間が集まり、飲食をともにしながら月の出を待ち、お経を唱えて月を拝むという信仰がありました。特に、二十三夜の下弦の月の出を待つ信仰が盛んで、これにともなって石塔を造立することも行われました。
江戸時代の二十三夜塔は、府中市内では4基が確認されています。
園内石造物
(2)馬頭観音塔(ばとうかんのんとう)
造立年 嘉永3年(1850)
旧在地 府中町2丁目
馬頭観音は、頭上に馬頭をいただき、激しい怒りの形相をしていて、一切の魔や煩悩をうち伏せる働きをするとされています。江戸時代には、馬の無病息災や供養のために石造の塔が盛んにつくられました。
(2)は、一体で三つの顔と六つの腕を持つ姿が浮き彫りされたもので、府中中心部に住む49名によって造立されたものです。
(3)庚申塔(こうしんとう)
造立年 天和元年(1681)
旧在地 白糸台5丁目 八幡神社前
十干と十二支の組み合わせの一つである庚申(かのえさる・こうしん)の日の夜には、体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)が天帝にその人の悪事を報告しに行くとされていました。そのため、この日は眠らずに勤行をしたり宴会をしたりする信仰がありました。その歴史は古く平安時代にさかのぼりますが、江戸時代には民間に広く普及しました。この信仰に基づき造られたのが庚申塔です。
ただ、一口に庚申塔といっても、彫り込まれる仏像、神像、文字などはさまざまでした。申は干支で猿に例えられることから、〈見ざる・言わざる・聞かざる〉の三猿をあらわしたもの、仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされるため、これをあらわしたもの、神道では猿田彦神(さるたひこのかみ)とされるため、これをあらわしたもの、などがあります。
園内に設置した庚申塔は、(3)は三猿、(4)(5)(6)(7)は青面金剛と三猿を浮き彫りしています。
(4)庚申塔(こうしんとう)
造立年 元文3年(1738)
旧在地 白糸台5丁目 八幡神社前
(5)庚申塔(こうしんとう)
造立年 元文4年(1739)
旧在地 白糸台5丁目 八幡神社前
(6)庚申塔(こうしんとう)
造立年 享保9年(1724)
旧在地 白糸台5丁目 八幡神社前
(7)庚申塔(こうしんとう)
造立年 正徳3年(1713)
旧在地 若松町4丁目
(8)地蔵塔(じぞうとう)
造立年 寛文10年(1670)
旧在地 八幡町1丁目
地蔵菩薩を浮き彫りであらわした石塔です。府中の新宿(しんしゅく)に住む34人で構成された念仏講というグループによって造立されたことが刻まれている銘文からわかります。
(9)石橋供養塔(いしばしくようとう)
造立年 享保19年(1734)
旧在地 押立町1丁目
石製の橋のたもとに、安全を願って建てられた石塔を石橋供養塔といいます。
(9)は田んぼの用水路を渡る小さな石橋の脇にあったものです。下染屋村(しもそめやむら)の人々によって建てられていますが、「供養石橋」の文字の下に〈見ざる・言わざる・聞かざる〉の三猿が彫刻されていますので、彼らは庚申信仰のグループであったと推測されます。
(10)大乗妙典一字一石塔(だいじょうみょうてんいちじいっせきとう)
造立年 元禄4年(1691)
旧在地 八幡町1丁目
経文などを収めて供養した石塔の一種です。
銘文から大乗妙典経を小石に一文字ずつ写して地中に埋め、その上部に立てられたものと推測されます。釈迦如来の坐像が浮き彫りされています。
(11)道標(みちしるべ)
造立年 大正4年(1923)
旧在地 宮町1丁目
「南 是政村方面/北 小金井村方面」と書かれた道標。道路の拡幅に伴い土地を寄付したことを記念して建てられたものです。
(12)道標(みちしるべ)
造立年 大正12年(1915)
旧在地 押立町5丁目
「西 押立渡船場二至ル」「北 飛田給停留場二至ル近道」「東 上石原停留場ニ至ル近道」と彫られています。