秘蔵のひとしな
- 会場
- 本館 大会議室前ロビー
NO.8 平安宮で使われた緑釉瓦
2025年1月24日~3月28日
緑釉軒平瓦
京都市 平安宮跡出土か
平安時代 9世紀初頭ころ
緑色のうわぐすり(釉薬)がかけられた軒平瓦の破片です。今日の屋根瓦には、凍害を防ぐために釉薬をかけることがありますが、古代においては建物を荘厳することを目的としていて、その使用は都の宮殿や大寺院などに限られていました。
本館所蔵の緑釉瓦は、その文様から平安京の大極殿や豊楽殿といった宮殿の主要建物に用いられたもので、その造営初期のものと判断できます。小さな破片ですが、重厚感のある大ぶりの瓦で、緑色に飾られた華麗な宮殿の建物の姿をしのぶことができる遺品といえます。
NO.7 法隆寺式の軒丸瓦
2025年1月24日~3月28日
法隆寺式の軒丸瓦
奈良県 法隆寺出土か
飛鳥時代(白鳳期)7世紀後半
大きめの中房の周りに、2つの子葉をもつ花弁8枚を配し、その外側に鋸歯文を巡らした瓦で、複弁八葉蓮華文軒丸瓦といいます。同じ文様の瓦は奈良県の法隆寺で最初に用いられ、その後、同系統の瓦が各地に伝播したことから、この文様の瓦を法隆寺式軒丸瓦と呼び慣わしています。法隆寺は天智9年(670)に火災で焼失した後、今も残る西院伽藍が建立されますが、法隆寺式軒丸瓦はこの再建期に使われたものです。
本館所蔵瓦は残念ながら出土地不明ですが、法隆寺式軒丸瓦のなかでも祖型に近く、法隆寺出土の可能性も十分あります。
NO.6 柿右衛門様式の色絵皿
2024年11月30日~2025年1月23日
甕割り図の色絵皿
後藤コレクション
江戸時代 17世紀後半
伊万里焼のうち、乳白色の素地に赤・青・緑・黄などの鮮やかな彩色を施したものを柿右衛門様式といいます。17世紀後半に数多くつくられました。展示の八角皿は、その最盛期ともいうべき1670~90年代の作品で、中国の北宋時代の政治家でもあり学者でもあった司馬光の幼年期の逸話に基づく甕割り図を描いています。柿右衛門様式の色絵磁器はヨーロッパに数多く輸出され、さらにヨーロッパ各地の窯で多くの模倣品が生産されているのですが、この甕割り図の八角皿もドイツのマイセン窯で瓜二つの模倣品がつくられています。
NO.5 花蝶図の染付皿
2024年11月30日~2025年1月23日
花蝶図の染付皿
後藤コレクション
江戸時代 17世紀前葉
日本での磁器生産は、江戸時代初期、1610年代に肥前(佐賀県)の有田地域ではじまりました。伊万里港から運び出されたことから伊万里焼と呼ばれます。伊万里焼のうち、初期の段階を「初期伊万里」と呼んで区別しています。展示の染付皿は、1610~30年代の作品です。青みを帯びた白地に、青色(呉須)のみで、牡丹とそれに吸い寄せられた蝶が描かれています。絵付けの前に素焼きを行わない「生掛け」の技法を用いていて、ぽってりとした風合いが印象的です。口の部分には鉄釉が施されています。
NO.4 続縄文時代の土器
2024年9月27日~11月29日
続縄文時代の土器
北海道 オホーツク海沿岸出土か
続縄文時代 紀元前2~1世紀
北海道では、縄文時代に続く時代を続縄文時代と呼んでいます。本州の弥生時代を象徴する水田稲作は津軽海峡を越えて北海道にたどり着くことはなく、北海道では土器や石器を使う狩猟・漁労を生業とした独自の文化が育まれました。この文化期が続縄文時代です。
展示品は、オホーツク海沿岸に分布する続縄文時代前期の土器です。器の形や文様の特徴から、宇津内2a式と分類されている土器で、紀元前2~1世紀ころのものと考えられます。なぜか、真上から見ると楕円形をしています。
NO.3 万里の長城の磚
2024年9月27日~11月29日
磚
中国 万里の長城出土か
中国明代 1579年
敷き並べたり、積み重ねたりして使う、レンガ状の製品を磚(塼とも書きます)といいます。
展示品は、焼き物の磚で、重さは11kgもあります。積み重ねた磚を固着させるために使われた漆喰がこびり付いていて、長辺の小口に「鎮虜奇兵営造萬暦七年分磚」の文字が刻印されています。「奇」は「騎」の省略と推測されますので、〈外敵に対処する騎馬兵の軍団が、萬暦7年に製作した磚〉という意味なのでしょう。「萬暦」は中国明代の年号で7年は西暦1579にあたります。「鎮虜奇兵営」の詳細は不明ですが、万里の長城で使われていたものといいます。
NO.2 「応永十九年」の鰐口
2024年7月20日~9月26日
表
旧在地不明
室町時代 1412年
鰐口は、鈴を扁平にしたような形をした鋳銅製品です。寺堂や社殿の軒先に吊り下げて、祈願の際には縄緒で打ち鳴らしました。
展示の鰐口は、直径16cmほどの小型品です。両面に銘文が刻まれていて、錆と磨滅により判読困難ですが、展示している面に辛うじて「応永十九年八月日」、反対の面に「長松寺」とあるのが読み取れます。応永19年は西暦1412年で、この年に長松寺に奉納されたものであるとわかります。しかし、長松寺がどこにあったのかは不明です。
NO.1 多賀城跡の古瓦
2024年7月20日~9月26日
軒丸瓦
宮城県多賀城市多賀城跡採集
奈良時代
多賀城は、陸奥国の国府であるとともに、鎮守府が置かれた軍事拠点でもありました。創建は神亀元年(724)で、11世紀中ごろまで存続したと考えられています。国の特別史跡に指定されている多賀城跡の発掘調査は1960年代から進められていて、政庁を中心に丘陵上に広がることが判明しています。また、城跡の南側には都から赴任した国司をはじめ、人びとが集住する都市的な空間が広がっていたことも確認されています。
展示品は軒丸瓦と軒平瓦で、軒丸瓦は天平宝字6年(762)の大改修時に、軒平瓦は創建時に用いられたものです。
軒平瓦