歴史


ページ番号1000059  更新日 2016年3月31日


市内家分け古文書

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歴史分野の資料の大多数は、古文書史料です。旧蔵していた家ごとに整理を行い、現在その家数は60軒以上に及びます。1軒で数千点を数えるものもあり、未整理分をあわせると全体で3万点以上になります。整理が終了したものは、「府中市内家分け古文書目録」として順次目録を刊行しています。

国府台勝概一覧図

江戸時代末期に刷られた鳥瞰図です。ケヤキ並木、甲州街道を中心にして多摩川と対岸の多摩丘陵から富士山を望む、府中の観光絵図です。大きく描かれた六所宮(大國魂神社)は今も昔も府中のランドマークです。題名の「国府台」は、JR府中本町駅の東側の台地上のことで、古代に国司や国造の屋敷があったという伝承に由来するものです。その後、天正18年(1590)には徳川家康がこの場所に府中御殿を建造させたと伝えられることから、旧跡と眺望を売りに江戸時代末期に観光地として整備されました。

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備蓄用籾・蕎麦・はとむぎ

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元和元年(1615)から天明8年(1788)の注記がある穀類です。飢饉に備えて蓄えられていたものでしょう。江戸中期、府中押立村の名主から大岡越前守に取り立てられて幕府代官になった川崎平右衛門の生家に残されていました。明治40年(1907)に成分分析をした記録が付いていて、食味は新米と大差なかったそうです。

伝馬高札

高札とは、キリシタン禁止、火付け・盗賊の禁止など、江戸幕府の基本施策を墨で記した木札のことです。この高札を掲げていた場所を高札場といい、村や町の中心に設けられていました。市内宮西町には府中宿と八幡宿村が使用した高札場が残っていて、東京都の旧跡に指定されています。写真の高札は、この高札場にかかっていたもので、宿場の役割である伝馬に関する内容が記されています。文字はほとんど見えなくなっていますが、当時は高札の墨が薄れてくると、名主たちが上からなぞって「墨入れ」をしました。

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アルビヨン型手引印刷機

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開国後、明治維新の文明開化とともに、西洋から新しい品がたくさん入ってきました。なかでも印刷・出版に関わる品々は、その後の情報化社会に大きな役割を果たしました。この印刷機はイギリス製のものをまねて作った国産品で、多摩地域における印刷業の先駆けであった成文社で使用されていました。この地域の自由民権運動の一翼を担った雑誌『武蔵野叢誌』もこの機械で印刷されており、府中の近代化を象徴する資料といえます。

村野四郎『体操詩集』

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府中出身の現代詩人村野四郎を世に知らしめた詩集です。刊行は38才の時、彼にとって2番目の詩集でした。
テーマをスポーツにしぼり「今ここにある肉体と精神の美しさの交点を詩の上に造形」した作品は、友人北園克衛の装丁による詩と写真を組み合わせた大判の造本とあわせて世の中に衝撃を与えました。


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